その手を取れなかったのは私の弱さ。



『ああ、いっそ諦めてしまえたらいいのに』



あれは確か十一の夏。
私は、両親の元を離れ京の町にやって来た。



『暑い…』


盆地の夏は酷く蒸し暑くて…
ごった返す人込みを歩きながら暑さにくらくらしたあの日。
でも、都と呼ばれる京の町の賑やかさや煌びやかさは新鮮で…
本の中の世界を見る気持ちだったのをよく覚えている。



―そして、私は今その町で生きている。



うちの家は京の街中にある小さな古本屋だ。
本好きの祖父母が止める両親や周りを振り切れ始めた店。
父や母は道楽の店だと言う。


『この乱世に古本屋なんて商売にもなりやしない。』


そう言ってよく溜め息を付いた両親。
確かにこのご時世にさしてもうからない酔狂な商売だと思う。
けれど、この京と言う町においてはこの酔狂な商売もそれなりに成り立つもので。
祖父母と私の三人が生活していく分にはそれなりにどうにかなった。
最初は色々圧倒された京の町にも少しは慣れた(でも、祭りの盛り上がりはたまに付いていけない)
でも、未だになれないものがたった一つある。


「よっ、。こんな所にいたのか。」

それは彼の存在。




「慶次さん…」
「家にいないから探しちまったぜ。」


後ろからかけられた声。
よく知ったそれに振り向けば予想通りの人物。
奇抜な着こなしの着物に高く結った髪、背中に身の丈程の柄の長い大刀。
肩には小さな子猿…こんな人は歌舞伎者が多い京とは言え一人しかいない。
と、言うかこの国中探しても一人しかいないだろう。
彼…前田慶次意外には…


「そんなに急いで…また家出ですか?」
「家出じゃねぇよ。ただ、ちょっとまつ姉ちゃんがなぁ…」
「怒らせて逃げたなら立派に家出ですよ。」


どうやらやっぱり家出らしい。
この前田家の風来坊(らしい)は何か家で悪戯しては家人に追われている。
その筆頭が彼の叔父である前田利家様の妻…つまり叔母のまつ様は凄いらしい。
噂でしか知らないけれど薙刀片手に自分より大きな慶次さんを追いかけまわすと言うのだ。
しかも、さっきなど京の町を閉鎖した捕物が行われたらしい。
…さすが、慶次さんの身内規模が違うな。


「ちぇっ、凜は真面目だなぁ。」
「慶次さんが不真面目なんです。武士の癖に…」


慶次さんは武士だ。
しかも、有名な武家の前田家の直系筋…本来ならこんな口聞けるわけもない存在。
だけど、この町では彼に堅苦しい言葉を使う人も様を使う人もいない。
それは慶次さん自身が望んだ事。


「別に俺は主君なんていないし、乱世とか天下統一とかに興味はねぇしなぁ。」
「前田家は織田に仕えてるんでしょ?」
「家はな。そりゃまつ姉ちゃんや利が危ないなら駆けつけるけど…それだけだ。」
「…風来坊だから?」
「まぁな。縛られるのは嫌いだよ。」


どこまでも慶次さんは自由だ。
束縛を嫌い、自分の好きなように動き自分の好きなように生きる。
まるで風のような人だと思う。



「って、事でそろそろ行かねぇと…急がねぇと待つ姉ちゃんが来ちまう。」

―私とは正反対の人。



慶次さんは自分の心のままに生きる事が出来る人。
でも、私には多分…いや、絶対にこんな生き方出来ない。
なぜなら私は臆病だから…


「…次はどこへ行くの?」
「そうだなぁ。各地を気ままに回ってみるかなぁ。まずは奥州辺りだな。」
「なんで奥州?」
「独眼竜の治める長谷堂城には竜が住むらしいぜ。」
「行き成り人の城に侵入ですか……物凄い見物魂だね。」
「だって、気になるだろ。竜がほんとにいるのか。」


私から見れば彼の話は本の中の物語のようだ。
思いも付かないような遠い世界のような話だけれど、彼には確かな現実。
こんな無茶な事も彼はきっと実行してしまうのだろう。


「っと、長居しちまったな。そろそろいかねぇとまつ姉ちゃんと利が追ってくる。」
「はいはい、早く行けばどうです……って、なんですかその手?」


追っ手の事を思い出したらしい。
慌しい態度に行くのかと思ったけれど、差し出されたのは…手。
その意味を知りながら私はわざと訝しげな顔を作る。


「なんですかって…何度も言ってんだ。わかってんだろ?」
「…わかりません。」


ほんとはわかってるくせにわからない振り。
それを慶次さんもわかっているから、一瞬だけ哀しそうな顔をして…笑った。
いっそ知らない振りをするなと怒ればいいのに私は彼のこう言う優しすぎるところが嫌いだ。
私は彼の…慶次さんのそういう所が…



「じゃ、もっかい言うわ。俺はが好きだ。に恋してる。だから、一緒に行こうぜ。」

どうしようもなく嫌いで……好き…



差し出された手と告げられる告白。
何度この言葉を聞いて、何度その手を差し出されたのだろう。
慶次さんが酔狂でこんな事言わないと知っている。
本気で言ってくれているのだと知っている。


「…お祖父さんとお祖母さんを置いてどこへ行けと言うのですか。」


なのに私はいつだって冷たくそれを拒絶する。
ほんとはその手を取りたいくせに、祖父母を理由にして拒絶する。
確かに二人の事は大切だし、心配だけど祖父母は決して私の保護を必要としてはいない。
反対を押し切って京に来たような人たちだから話せば行って来いと言ってくれると知っているのに…
でも、私はいつだってこの差し出された手を拒絶するのだ。


(だって、この手を取ってしまえばもう戻れない…それは怖い。)


私は私を知っている。
慎重と言えば聞こえはいいけど、酷く臆病な自分を知っている。
最後に冒険したのはこの町に来た十一の時…それから私はずっとこの町で生きてきた。
そんな私にとって慶次さんの世界広くて魅力的ある反面怖い。
この手を取るのは酷く簡単だけどその後は?
そんな思いが私を押し留める。


「…ちぇっ…また振られちまったか。でも、俺は諦めねぇぜ。」


慶次さんを傷つけて自分を守っている私。
こんな可愛げのない卑怯な女早く見捨てればいいのに慶次さんは諦めない。
少し哀しげな目をした後にいつもの様に笑うのだ。
そして、私はその優しさに付け込んでいる。


「帰ってきたらまた土産話をしてやるよ…じゃ、行って来る。」
「…いってらっしゃい。」


『いって来る』と言う慶次さんに私は『いってらっしゃい』と返す。
少なくともこれがあるうちは私のところに来てくれる気があるのだとわかっているから安堵する。
どこまでも卑怯な自分に自嘲しつつもそれでも思ってしまう。



―次に手を差し出してくれたらその時は…と…



なんて勝手で矛盾した考え。
変化を恐れていながら慶次さんが自分を連れ出してくれる事を願っている。
いっそ、強引に連れ去ってくれたら…なんて、言える立場でもないくせに…
だから、私はせめてたった一つだけせめて『お帰りなさい』はちゃんといいたいと思う。
拒絶するしか出来ない私だけれどせめてそれだけはやってきた彼に言いたいと思う。
彼が『ただいま』と言ってくれる間だけは…



そう思ってたのに…



感じたの冷たい何かが体に入る感覚。
強烈な異物感に下を向けば腹部には深く刺さった…刀。
私はそれを呆然と見ていた。


「え?…」


痛みとかそう言うのは二の次で。
目の前の光景が信じられないのか脳が上手く働かず脳に痛みが到達してない。
ただ刃の冷たさだけがやけに鮮明だった。


「おっ!お前なにやってるんだ!無傷で連れて来いって半兵衛様に言われただろ!?」
「こっ、この娘がて、抵抗するから!」


そして、目の前ではその状況に狼狽する豊臣の兵の人たち。
慶次さんが京を経ってから数日たったある日、突然家にやって来た彼ら。
行き成りやって来た彼らに狼狽する私に彼らは言った。


『お前が前田慶次と恋仲の娘だな。来てもらおうか。』


違うとか思わず返す前に感じたのは恐怖。
豊臣の兵だって事は格好を見れば一発だし、なにより慶次さんが豊臣を嫌っていたのを知っている。
なんでかは知らないけれど豊臣の名が出た時だけいつもは明るい彼の表情が冷たくなる。
基本的に人好きする彼には珍しい表情に何かあったのだろうと思っていた。
そんな豊臣が彼の恋仲だと思っているらしい私を呼んでどうするのか…
ただそれが慶次さんの振りになる事だけはよくわかった。


『…お断りします。』
『何だと!我らに逆らうのか!!』
『逆らうも何も突然来てなんですか、ここは豊臣様の領ではないはずです。』
『娘!口を慎め!』


恐怖を押さえつけて嫌だと拒絶した。
実際、この町を治めているのは豊臣ではなく慶次さんだ。
治めていると言うと少々御幣があるかもしれないが、彼がいるからこそ周りの国は何も言わない。
この京と言う町は周りのどの勢力にも属してない場所…だから、私が言う事を聞く必要はない。
だが、それで納得する相手ではなく刀を抜いた。


『いいから付いてこればいいのだ!』
『いやっ!離して!』
『お、おい!あぶなっ!』


力づくで捕まえようとする手。
それから逃げようともがく私に腹が立ったのだろう。
刀を持った兵が無理やり押さえつけようとしたその時…
兵が持っていた刀が私の腹部を貫いた。


「と、とにかく、い、今抜く!」
「ばっ、抜くな。」
「あぁっ!!!」


兵も焦ってたんだと思う。
止めるのも聞かずに抜かれた刃に一気に傷みが脳を駆け抜ける。
そして、それと同時にあふれ出す赤い血。


「お!おい!ど、どうするんだよ!半兵衛様は生きて連れて来いって言ってたんだぞ!」
「止血!止血するんだ!」
「そ、その血じゃもう無理だ!お、俺はしらねぇ!」
「ちょっまっ!…置いていくな!」


着物にしみこみ床に小さな血溜まりを作るそれ。
混乱状態になった兵達は一人が逃げ出すと同時にみんな逃げ出し始めた。
その姿はほんとに戦場に立つ兵なのかという感じだけれど…そんな事はどうでもいい。
腹部に感じる強烈な痛みと血と共に急速に失われていく体温。
死に近づいていく自分を感じる。


(あぁ、私死んじゃうんだ…こんなにあっさり死んじゃうんだ)


この乱世の時代、いつ死ぬかわからないとは思っていた。
でも、実際はこの町は戦から遠くてどこかでそんな日は来ないと慢心していた。
終わりがこんなに突然やってくるなんて思ってた。


「言えば…よかった…な…」


思い出すのは後悔ばかり。
あの時、こうしておけばよかったとかあぁしておけばとか…
慶次さんに好きだと伝えておけば良かったとか…


「慶次…さん…」


あの日、一緒に行こうと差し出された手。
あれを取っていればこんな事にならなかったのだろうか?
それすらももう遅いことだけれども…



「『おかえり』…言えなかった…な…」

だって、私はせめてこれだけはと願った事すら出来はしないのだから…



その手を取れない代わりに…
好きだといえないかわりに『おかえり』を言いたかった。
この町に帰ってくる『ただいま』と言ってくれる彼を迎え入れたかった。
もう二度と叶わないとわかっていながらせめてと願ってしまう。
そんな私はほんとに弱くてどうしようもなくて…



ああ、いっそ諦めてしまえたらいいのに…でも、私には諦める強さもありはしないのだ。



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